LOGIN直くんは。そのまま軽く手を上げた。「じゃあ、おやすみ」「おやすみ」「お疲れ様です」ドアが閉まる。タクシーは。滑るようにホテルの前を離れていった。赤いテールランプが。通りの先へ消えていく。「本当に」私は小さく息を吐いた。「忙しいのに、元気だよね」「そうだね」隣から返事が落ちる。顔を上げる。隼人くんは。タクシーが消えた方向ではなく、私を見ていた。「何?」「いや」少しだけ笑う。「お兄さん、面白い人だなと思って」「直くんが?」「うん」「合いそうだったよ」「仕事なら、たぶん」「仕事じゃなくても」言うと。隼人くんが目を細めた。「綾香ちゃんが間にいなければ」「もう少し気楽に話せるかもしれない」「私がいると、話しにくい?」「そうじゃないよ」すぐに否定する。「ただ」少しだけ考えるように視線を外す。「近いから」何のことか。すぐには分からなかった。「直くんとの距離?」「うん」「兄妹だよ」「分かってる」隼人くんは、苦笑する。「気にはならないって言ったけど」「結構近いなって思って。ここに着いて、二人を見たときに。気持ちがざらついたのは本当」言葉は穏やかだった。責めるような響きもない。それでも。少しだけ引っかかっていたことが分かる。「直くんは」私は言う。「昔から、ああいう距離だから」「うん」「私も慣れてるし」「それも分かってる」隼人くんは。ゆっくりこちらへ近づいた。ホテルの入口を出入りする人を避けるように。私の肩へ手を添え。少しだけ自分の方へ寄せる。「でも」低い声が落ちる。「自分の近くにいてほしいと思うのは」「仕方ないでしょう」胸の奥に。小さな熱が広がる。さっき。直くんの近くにいた私の手を。隼人くんが自然に引いた。あの時も。同じことを思っていたのだろう。「今も?」聞くと。隼人くんは、少しだけ笑った。「今も」肩へ置かれた手が。そのまま腕へ下りる。触れ方は軽い。けれど。離れるつもりはないらしい。「綾香ちゃん」「うん?」「今日も」一度、言葉を止める。「一緒にいたいんだけど」まっすぐ目を見られる。「うちに来る?」少しだけ間を置いて。続けた。「それとも、送ってく?」選ばせてくれる。どちらを答えても。嫌な顔はしないのだと
直くんが、一度こちらに視線を向けたのを感じる。そのまま、軽く笑って。視線をグラスに戻す。 「最近」少し間を置いてから、話を切り出した。「家の話を聞く機会、増えてるから」「どうして?」私が尋ねると。直くんは、ウイスキーのグラスを指先で軽く回した。氷が小さく触れ合う。「投資会社の方は相変わらず忙しいんだけど」一度、隼人くんを見る。「最近は、俺も家業を手伝うことが増えてて」「直くんが?」「そんなに意外?」「家のことは、真哉兄さんに任せてると思ってた」「基本はね」直くんは、軽く肩を竦める。「でも、投資や海外事業が絡むと」「俺の仕事と完全に切り離すのも難しいから」昔から。直くんは家の中へ収まる人ではなかった。白松家の名を使うより。自分で人脈を作り。自分の判断で事業を動かしてきた。それでも。完全に家から離れているわけではない。必要になれば。自然に戻り。家の外で得たものを、家のためにも使う。直くんらしい関わり方だ。「だから」直くんは、今度は隼人くんへまっすぐ目を向けた。「綾瀬で投資事業をやるなら」「今後、俺との関わりも増えるかもしれませんね」隼人くんが。少しだけ目を細める。「その可能性はあると思います」「やっぱり」「まだ」隼人くんは落ち着いた声で続けた。「具体的にどこまで引き継ぐかは決まっていません」「でも」「家の投資部門を残すなら」「外部との窓口は必要になるので」「そのうち、また会議で会いそうですね」直くんは、どこか楽しそうだった。「前は」「お互い、ほとんど話さなかったですけど」「次は、少し話せそうです」「仕事の場なら」隼人くんの口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。「今日よりは、真面目な話になると思います」「今日は真面目じゃなかった?」「半分くらいは」直くんが笑う。「じゃあ、残り半分は次に取っておきます」軽い会話だった。けれど。二人の間には。初対面の時よりも、少しだけ近い空気が流れている。直くんは。人との距離を縮めるのが早い。隼人くんも。相手の言葉の裏を読みながら。必要以上に構えることはしない。仕事で会えば。意外と相性がいいのかもしれない。そう思った時。直くんが腕時計へ目を落とした。「そろそろ行かないと」「まだ仕事なの?」「うん」「今か
「嫌いではないです」隼人くんは、すぐに答えた。「ただ」「綾香ちゃんの気持ちより先に」「話を決める人は、信用していません」直くんが。わずかに眉を上げる。それから。楽しそうに笑った。「はっきり言いますね」「直哉さんが、聞いたので」「そうでした」軽いやり取りだった。けれど。隼人くんの声には。冗談にして終わらせるつもりのない硬さが残っていた。私は。二人を交互に見る。直くんは。隼人くんの言葉を不快には感じていないようだった。むしろ。どこまで言う人なのか。楽しんで見ているようにも見える。「でも」直くんが、私へ視線を戻した。「父さんが諦めてない理由は」「家の仕事だけじゃないと思うよ」「他にもあるの?」「東郷家との関係も」その名前に。指先が止まった。隣で。隼人くんの視線が、わずかに動く。「優のこと?」「うん」直くんは、あくまで軽い調子で続けた。「離婚しても」「東郷家との関係自体は、引き続きいいでしょう」「うちは、仕事での取引も多いし」「真哉兄さんも、優とは普通に話してる」それは知っている。離婚したからといって。家同士の関係まで切れたわけではない。優も。東郷家の人間として。今まで通り白松家と関わっている。私個人の結婚だけが終わった。父にとっては。それくらいの違いなのかもしれない。「それに」直くんがグラスを持つ。「優の影響も、少しあるんだと思う」「どういうこと?」「たまに言ってるらしいよ」直くんは、何でもないことのように答えた。「家同士のことを考えても、別れる理由はなかったって」胸の奥が。小さくざらつく。意味が分からないわけではない。優は。自分なりに離婚の理由を理解しようとしている。それでも。なぜここまで戻れなくなったのか。まだ受け入れきれていないのだと思う。「別れた理由なら」私は言う。「いくらでもあるでしょう」「綾香にとってはね」直くんは、否定せずに答えた。「優にとっては」「全部、今から直せることに見えてるのかもしれない」隼人くんが。グラスへ手を伸ばす。一口飲む。表情は変わらない。けれど。さっきより少しだけ。横顔が静かになった。「隼人くん?」名前を呼ぶと。すぐにこちらを見た。「何?」「いや」何でもないと言おうとして。
「父さん、まだ諦めてないみたいだよ」直くんの言葉が。静かなテーブルの上へ落ちた。窓の向こうには。東京の夜景が変わらず広がっている。遠くを走る車の光も。グラスの中でゆっくり溶ける氷も。何も変わっていない。それなのに。さっきまでより、空気だけが少し重くなった。「何を諦めてないの?」私が聞くと。直くんは、すぐには答えなかった。ウイスキーのグラスを傾け。琥珀色の液体を少しだけ口にする。「縁談そのものは」グラスを置く。「綾香があそこまで言った以上、今すぐ押し通す気はないと思う」「今すぐは?」「父さんだからね」直くんが、少し困ったように笑う。「一度決めたことを、その場で全部諦める人じゃないでしょう」否定できなかった。父は。私が断ったからといって。自分の考えそのものが間違っていたとは思わない。今回は条件が整わなかった。時期が悪かった。相手との組み合わせが違った。それくらいに受け止めている可能性が高い。「ただ」直くんが続ける。「次の相手をすぐ探してる、って話じゃないよ」隣で。隼人くんの肩から、わずかに力が抜けたように見えた。けれど。表情は変わらない。「じゃあ、何?」「綾香を」直くんが私を見る。「家の仕事に、もう少し関わらせたいみたい」予想していなかった言葉に。一度、瞬きをする。「私を?」「医療法人の方もそうだし」「財団とか、地域医療の事業とか」「綾香が病院に戻って」「外のプロジェクトにも関わり始めたでしょう」直くんは、テーブルの上で指を組んだ。「父さんなりに」「今なら、綾香も家の中で役割を持てるって考え始めたみたい」「役割」その言葉が。少しだけ胸へ引っかかる。父にとって。家族は役割を持つものだった。真哉兄さんは。長男として家を支える。直くんは。外で人脈と事業を広げる。私は。家同士をつなぐ結婚をする。それがなくなったから。今度は医師として。家に利益を返す立場へ置こうとしているのかもしれない。「父さんが」隼人くんが静かに尋ねた。「綾香ちゃんの仕事へ、具体的に動いているんですか?」「まだ、そこまでは」直くんは首を横へ振る。「少なくとも、俺が聞いてる範囲では」「ただ」少しだけ目を細める。「最近、綾香が何をしてるのかは、かなり気にしてる」「プロ
「綾香ちゃんが」隼人くんが一度、私を見る。「家同士での縁談を持つ可能性を」言葉を選ぶ。「僕が、消してしまいました」直くんの目が。わずかに細くなる。軽い笑みは残っている。けれど。聞き流してはいない。「どうやって?」「俺が」隼人くんは、直くんへ視線を戻した。「綾瀬家の事業を継ぐと決めました」直くんの表情が止まる。「綾瀬先生が?」「はい」「それまでは」「家とは距離を置いていました」「クリニックも、そのために?」「それも理由の一つです」直くんは。短く息を吐いた。驚きを大きく見せる人ではない。それでも。今の話が軽くないことは、十分伝わっていた。「綾香との縁談をなくすために」確認するように言う。「そこまで決めたんですね」「それだけが理由ではありません」隼人くんは答える。「いつかは、向き合う必要があることでした」「ただ」もう一度、私を見る。「決断を早めた理由が、綾香ちゃんだったのは事実です」胸の奥が。小さく揺れる。何度か聞いた言葉だった。それでも。兄の前で、隼人くんの口から聞くと。少し違う重さを持つ。「でも」隼人くんが続ける。「縁談を断ったのは」今度は、はっきりと私へ視線を向けた。「綾香ちゃん自身の考えです」直くんも。私を見る。「そうなの?」「うん」私はグラスから手を離した。「もう」少しだけ息を吸う。「結婚するつもりはないの」直くんの眉が、ほんの少し動く。「結婚自体を?」「家同士で決める結婚を」言い直す。「契約みたいに」「条件を並べて」「周りにとって一番都合がいい相手を選ぶことを」「もう、するつもりはない」直くんは黙って聞いている。「優の時で、学んだの」自分で口にすると。胸の奥に残っていたものが、少しだけ形になる。「優と結婚したことを」「全部、誰かのせいにするつもりはないよ」「私も断らなかったし」「優と結婚したいと思っていた時期もあった」「でも」グラスの中で。薄い氷が、静かに傾く。「反対するほど嫌じゃないから」「家にとって都合がいいから」「相手も悪い人じゃないから」「それだけで、結婚を決めるのはもうやめる」直くんの表情が。ゆっくり柔らかくなる。「父さんには、そう言った?」「言ったよ」「直接?」「両家がいる前で」「綾
案内されたのは。大きな窓に面した、半円形のソファ席だった。足元まで続くガラスの向こうに。東京の夜景が広がっている。遠くのビル群。小さく流れていく車の光。空と街の境目は、もうほとんど分からなかった。スタッフがテーブルを引き。私たちを席へ案内する。隼人くんは。先ほど取った私の手を、そのまま軽く引いた。「綾香ちゃん、こっち」促されるまま。私は隼人くんの隣へ腰を下ろした。向かいへ、直くんが座る。直くんは席へ身体を預ける前に。私たちの位置を一度だけ見た。けれど。何も言わない。口元に、少しだけ笑みを残したまま。メニューを開いた。「何飲む?」「私は、さっき美香と飲んできたから」「じゃあ、軽いものにする?」「うん」直くんがスタッフを呼び。私が選びやすいように、いくつかカクテルの特徴を尋ねる。押しつけられている感じはない。それでも。気づけば。私が選ぶために必要な情報だけが、綺麗に並んでいる。「それにする」私が一つ選ぶと。直くんは、すぐに注文をまとめた。隼人くんはウイスキー。直くんも、同じものを頼む。「同じなんですね」隼人くんが言う。「好みが合うかもしれないので」直くんは軽く笑った。「合わなかったら?」「それはそれで、覚えておきます」何を覚えるのか。聞くほどでもない気がして、私は黙っておいた。スタッフが離れる。テーブルへ、短い静けさが落ちた。直くんは。すぐに縁談の話へ入らなかった。一度、隼人くんの顔を見て。少しだけ首を傾ける。「どこかで、会ったことありましたっけ」隼人くんも。直くんの顔を改めて見る。「俺も、少し気になっていました」「ですよね」直くんが笑う。「綾瀬先生が投資していた会社」その言葉で。隼人くんの目が、わずかに変わった。「ファンドで引き上げたの、直哉さんでしたか」「そうです」直くんが、あっさり頷く。「直接お話ししたのは、たぶん一度か二度ですけど」「会議では、もう少し同席していました」「なるほど」隼人くんの口元に、小さな笑みが浮かぶ。「どうりで見覚えがあると思いました」「俺もです」直くんはグラスが届く前の空いたテーブルへ、指先を軽く置く。「綾瀬先生の名前は覚えていました」「投資家の中では」一度、少し考える。「珍しく、引き際が綺麗だった
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて







